私はこのページを作るか悩みました。
でも、もし同じようなことで悩んでいる方の、少しでも励みにやればという気持ちと
誰かに私の気持ちを聞いてもらいたいと思い作成しました。


母は精神障害者手帳を持っています。
病名はパニック障害・うつ病と診断されてます。
人それぞれ症状は違うと思いますが、母の症状は決して軽いほうだとは思いません。
私の記憶の中では一人で電車・バスなど乗ったこともなく、近所以外はこの町内を出たことはないです。
病院に行くのも、今は私が一緒に行く役目をしています。

母は平成13年3月に肺ガンの手術をして
「5年再発しなければ完治です」と主治医の先生に言われてました。
あれから約3年後今年の平成16年2月19日
いつものように病院に行き、いつものように診察した後、母を連れ廊下にある待合室に行こうとすると
「娘さんはちょっと残って・・・」と言う先生の言葉にドキッとしました。
案の定嫌な予感は的中
「リンパ節に転移、あと3ヶ月とか半年と言う単位の命」と宣告されました。
私は動揺を隠し、たいした話ではなかったよ・・・という顔をするのが精一杯で母の顔をまともに見ることができませんでした。
父は母のことをとっても大事にしているので、このことを言うのになかなか言い出せず、次の日になってしまいました。

この事は、私が妊娠発覚から1週間くらいたってたらの出来事でした。
いつも、少しでも幸せな気分になると突き落とさせれるきがします。
と思うのも、
母の病歴はかなり長く
「30年以上前私を生んだ時親戚ともめたのが原因で神経をやられた」と母は言ってますが、
母の姉妹から聞くと「もともとのものは持っていたよ」と言います。

私の記憶をたどると、母は一切家事をしませんでした。
というのも大げさかもしれませんが、朝ごはんに魚を焼いてくれたり
夕食に買ってきたお惣菜などは出してくれます。

父は婿で、同居をしている祖父が家事の一切をこなしていました。
私の兄弟3人の面倒からすべてをこなすお爺ちゃんは、尊敬する一人です。
そんなお爺ちゃんも1997年・90歳で亡くなってしまいました。

小学校にあがる前の母の記憶はないです。
小学校になり思い出すことと言えば
母の自殺騒ぎで近所に人にもいっぱい迷惑をかけたこととか、
包丁を持って追っかけまわされたこととか、いい記憶はありません。

自殺の仕方もさまざまで、テレビで見たことや人から聞いた方法を試したりしり、
近くに走っている電車に飛び込もうとしたりします。
そのたびに家族みんなで母を捜し、線路から引きずりおろしたりしていました。
自殺騒ぎを起こしたときのやり方は、リアルになってしまうのでやめときます。
本当にいろいろです。

私が小学校2・3年生のころかな?始めて精神科の病院があることを知り
父と私で怖がる母を連れ病院に行きました。
一回目は勇気が出なかったらしく帰ってきてしまい、後日改めて行ったのを覚えています。
そこから母の薬の生活が始まりました。
何をやっても続かないのに薬を飲むのは続き現在に至ってます。
でも、感じることはいくら薬を飲んでも、母は落ち着くみたいですが
近所に迷惑をかけなくなっただけで、家の中ではあまり変わりませんでした。

見た目では普通の人と変わらないのが、困ったものでした。
家庭訪問があったときは、先生に悪気はないみたいなのですが子供の悪口ばかりを言ってました。
しかも被害妄想があるので、たいしたことではないのにそのことをひどく言って・・・
真に受けてしまう先生いて、小学校3年生の先生は特に「わたしは悪い子・・・」と印象付いたらしく
教室でみんなの前で家庭訪問の内容を話し、この中に悪い子がいますと言わんばかりに言っていたのを覚えています。
何かあるとその先生とはおりが合わず集中攻撃されてました。
でも、口答えもできず言いたいことがあっても母の病気のことは誰にも
知られてはいけないっと思っていたので我慢していました。
そのせいか、だんだん私も変わった子になっていき友達もあまりいない子になっていました。
人付き合いも苦手になってきたのもこの頃です。

私が社会人になっても変わりはなく、職場にもよく電話をかけてきて上司にあれこれ言って
恥ずかしい思いをしました。

特に困ったことは、何でも買ってしまう衝動買いです。
父は職人でしたのでそれなりに稼いできたのですが、母はすべて使い切っていました。
出歩きはしないので、テレビで見る通販や訪問販売少しでもほしいと買ってしまい、
今でも着物・布団は何枚あるか分かりません。

私は実家の仕事(事務)を手伝うようになり、余裕がないことが分かりました。
しっかりしなくてはと思い、お金のことは私がやりくりをすることにしましたが、
このころ母はまだ衝動買いをやめることができず、次々に届く商品を返品していくということがしばらく続きました。
病気のことは理解できず、母に怒鳴ったり、手を上げることもしばしこの頃はありました。

私も結婚することが決まり、心残りでしたがいつかは出て行こうと決めていたし、家族も喜んでくれて
温かく送り出してくれました。
でも週1回は実家に帰り様子を見に行ったり、
この頃から母の病院へは私が行くことに自然になっていました。

精神科に一緒に行くことにより、やっと病気のことを理解することができ、
そんな母と自然に接することができるようになったのもこの頃です。

いろいろなことが重なり同居することが決まりましたが、またここからが大変でした。
借金に負われながら、母のことを見て子育て・家事・兄の子供のこと・・・
そのうち母の自殺願望がまた激しくなっていきましたが、そうなったときのこつが分かり
私しか止めることができませんでした。
これだけ自殺未遂をしているのに死んでいないところを見ると
「脅かしているだけ・・・(以前から分かっていたけど」
騒いでいるときは、言葉は入ってきていないみたいだったので、気のすむまでやらせることに・・・
危なかったりしたら、柔らかい口調で止めに入ったりしていたらそのうち落ち着いていました。

でも、私が妊娠してからは違います。
精神的にも私が不安定だったせいもあって、ものすごく母と折り合いが悪くなってしましました。
母も告知はしていませんがすっきりしない体調に何かを感じているのかもしれませんが、
人相が変わり私に向かってきたこともありました。

最近の出来事ですが、父と買い物に出かけ、そのすきに近くにある線路に行こうとしていたところを、
通りかがりの人が見つけて警察を呼んで一緒に助けてくれました。
そのまま保護されて、連絡があり迎えに行きました。
はっきり言って恥ずかしかったです。
これだけ何回も騒ぎを起こしているのに、警察にお世話になったのは始めてだったから・・・

パトカーから自分の車に乗せるのも一苦労。
口も利かず硬くなっている母はかなり重たい。
でもこれ以上おまわりさんには迷惑をかけたくない、と思ってしまい
妊娠しているのにもかかわらず、頑張って抱えて乗せてしまいました。
警察の方は、「居なくなったらすぐに連絡をしてくれれば一緒に探してくれる」と暖かい言葉をくれたけど
できることなら2度とお世話にはなりたくない・・・

今は私の精神面も落ち着いて、冷静さを取り戻すことが出来てきました。
家族で、母の命をどう有意義に過ごせるかを考え、出来ることは精一杯やってあげようと心がけてます。

まだまだ母は、暴れることもありますが、受け止めていこうと思います。

長々と付き合ってくれた方、どうもありがとうございます。
私は文章を作るのが大の苦手なので、気持ちをちゃんと伝えられているか分かりませんが
同じような家族の悩みなどある方が、励まされたら・・・と思います。



母は平成4年2月頃から精神的にかなり悪くなり精神病院に入退院を繰り返しました。
食事も食べたり食べなかったりで体力もかなり落ちてきました。
食べれないのも精神的のもので、生きる気力をしっかり持っていれば良かったのですが・・・
一つのことに依存するのもすごかったです。
便が気になるときはポータブルトイレに6時間くらい座ってることもあり
無理にやめさせようとすると暴れてしまうので、気のすむまま座らせていました。
タオルケットの毛玉をとって綺麗に並べていたりしたこともあります。

食事もあまり食べてくれないので、食べたいと言ったものを出すしかありません。
と言っても、栄養のあるものはほとんど口にしてはくれず、子供が食べるポッキンアイスが主食でした。
昼間はともかく、夜中もあまり寝ないで「アイス持ってきて」と続きます。
ケアマネージャーの方に相談をすると、やっぱり食べれそうなものを食べさせるしかないと言うことで
頑張りましたが、口にはしてくれずとうとう脱水してしまいました。
意識はなく即入院しましたが、次の日は塩分の値も良くなりましたが母の症状を見てびっくり・・・
脱水した人は元に戻ろうとするとき、夢を見ているような感じらしく朝から夜中までずっと喋っていました。
何を喋っているのは良く分からないのですが、「小泉さん」と総理の名前が良く出てきました。
国会のテレビを見るのがスキだったので、その内容だと思います。
不安になりました。ずっとこのままだったらどうしようと・・・
先生の話だと元に戻ると言っていたので、ただ見守るしかなかったです。
元には戻りましたが、精神的には落ち着きはしませんでした。
 
ご飯を食べたにもかかわらず5分後には「ご飯食べたかな・・・」と言ったり
おかしな会話は続きました。
この症状も精神的なものと言われました。

脱水をおこした時に入院をして癌のほうの検査もしたのですが、
「癌の種類が進行の遅いタイプなのであと1年くらいは大丈夫だろう」と聞きました。
命が伸びたようで嬉しい反面、いつまでこんなことが続くか不安もありました。
そんなこと(先の見えない母の病気のこと)を考えてる自分が嫌で複雑な気持ちでいっぱいになり
どうしていいか悩みましたが、生きている母がやっぱり大事なので頑張っていくしかないということに
たどり着きました。
心の支えになってくれたのは家族でもありますが、母の担当のケアマネージャーでした。
アドバイスや何かあるとすぐに飛んできてくれて助けてくれるとっても暖かい存在でした。
この人がいなかったら、家族だけでは見れなかったと思います。

私の出産も突然だと母も面倒をみる人がいなくなってしますので、計画出産しました。
その間精神病院とも相談して1ヶ月間入院させようと言ってくれてありがたかったです。
と言うのも、この頃も毎日ひどく自殺願望が激しくなっていたからです。
8月30日母が入院、31日に私が入院、9月1日に無事出産でき良かったです。
7日に退院して母から電話があり、「いつ迎え(退院)に来てくれる?」と聞くので
一ヶ月はそこにいるんだよ、とは言えず「お父さんと相談して迎えにいくね」としか言えませんでした。
10日に精神病院から電話があり、「呼吸か苦しそうなので転院したほうがいい」と言われ
癌で見てもらっている病院へ来ました。診てもらうと心臓の周りに水がたまっているそうで、天敵をるれば
すぐに水は抜けるとのことでした。
そのとき母に初めて赤ちゃんを見せることができ、抱っこしてもらいました。
とっても嬉しそうで、「かわいい」といっぱい言ってくれました。

心臓の周りに溜まった水は徐々に抜けていき、呼吸も楽になっていっているはずなのに
苦しそうにしていました。「精神的もので楽になっているはずだから苦しくはないはず」
と言う先生の言葉に「後、お母さんが頑張れば退院できるから、頑張って」と言うしかありませんでした。

14日に病院から電話があり父に来るようにと言われ、仕事が終わってからいくと
「後、本人がしっかりすれば退院で来る」と言う話で父も安心して帰ってきました。

15日子供を保育園に送っていき家に帰ると電話がなりました。
「母の呼吸・脈が急に止まり、今心臓マッサージをしているので至急来て下さい」
と言う言葉に真っ白になってしまい、たまたま嫌な予感のしていた父が仕事を休んで家にいたので
一緒に向かいました。
心臓マッサージをしていた母の手を握ると冷たくなっていました。
しばらく続けましたが母の心臓が動くことはありませんでした。

色々あったけど、やっぱり悲しいです。
精神的の病気がなければ、もっともっと幸せにすごせられたはずなのに・・・
今思えばもっと母にしてあげられたことがいっぱいあったのに・・・
自分なりに頑張ってきたつもりなのに後から気持ちがこみ上げてきます。
今は現実を受け止めることができませんが、これからも気持ちの中で母を大事にしていきたいです。





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